経済広報

『経済広報』(2017年1月号)掲載
視点・観点

現代PRの父「アイビー・リー」の素顔

河西 仁

河西 仁(かさい ひとし)
ミアキス・アソシエイツ合資会社 代表

 アイビー・レドベター・リー(以下、リー)は、広報の専門書や日本パブリックリレーションズ協会が認定するPRプランナー試験において、「パブリック・リレーションズのパイオニア」または「父」として紹介されており、広報に携わる方なら、彼の名前を見聞きしたことがあると思う。プレスリリースは、リーが初めて実用化し、彼が考案した記者会見やクリッピング、広報誌、社内報といった広報手法は、今では普通に活用されている。彼は、20世紀を代表する広報エージェントのひとりだが、その生涯や人物像はほとんど紹介されていない。本稿では、知られざるリーの素顔の一部を紹介してみたい。

牧師の息子で元新聞記者

 リーは、1877年、父(ジェームズ・ワイドマン・リー)、母(エマ)の長男として米国南部ジョージア州シダータウン近郊で生まれた。1901年にコーネリア・バートレット・ビガローと結婚して2男1女を設け、1934年に脳腫瘍で死去している(57歳)。
 高校卒業後、1884年にアトランタのエモリー大学に進学、1886年にプリンストン大学に編入し、1898年同大学を卒業した。卒業後、ハーバード大学ロースクールに進学したが、学費が続かず最初の1学期で中退し、1899年1月にニューヨークに移り『ニューヨーク・ジャーナル』紙に入社した。その後、『ニューヨーク・タイムズ』紙、『ニューヨーク・ワールド』紙で新聞記者として働いたが、『ワールド』紙を1902年末に退社し、1903年に広報エージェントとして独立した。
 『タイムズ』紙の当時の同僚によれば、リーは取材対象の記事のスクラップづくりや図書館通いなど、記者という職業に熱心に取り組んでいたという。彼は、南部人としての控えめなプライドと、人なつこさを示すパーソナリティを兼ね備えていた。180センチを超える身長とブロンドの髪と青い目、ゆっくりと話す南部なまりが、彼をほかの記者から目立たせていた。また、服装にもこだわり、同僚記者が何日も着続けたシャツとジャケットや、汚れた帽子をかぶっていたのに対して、取材時は清潔なスーツ、ネクタイに帽子がトレードマークだった。
 リーは生前、広報エージェントとしての仕事のほとんどを「書くこと」に費やした。それらはプレスリリース、広報誌、パンフレット、ポスター、ダイレクト・メールである。新聞への寄稿や講演原稿は存在するが、彼はパブリック・リレーションズに関する専門書を1冊も執筆しなかった。現在、彼がクライアントと交わした書簡の多くは、母校プリンストン大学に保管されている。

20世紀で最も多忙な広報エージェント

 リーは20世紀初めに取り組んだ、ペンシルバニア鉄道やスタンダード石油両社の事件・事故広報を成功させたことから、最も高給取りの広報エージェントとなった。彼は、当時の米国を代表する企業各社の広報顧問を引き受けるばかりでなく、アメリカ赤十字や教会をはじめ、各種業界団体の広報業務も引き受けていた。
 例えば、1920年代には実用化が始まった航空機での国内旅行に対する利用者の抵抗感(飛行機は怖い)を払拭するため、1927年に大西洋単独無着陸飛行を成功させたリンドバーグと共に、全米各地で飛行機の安全に関するキャンペーンを繰り広げた。
 また、環太平洋地域の民間レベルでの相互理解を深めるために設立された、非政府の学術研究団体「太平洋問題調査会」の広報業務を、設立当初から亡くなるまでボランティアで引き受け、1929年に開催された「第3回京都会議」出席のために来日している。会議開催中に、ウォール街大暴落(いわゆる大恐慌)が起き、リーは日本からニューヨークの自身の事務所にクライアント宛ての電信を打って、混乱を起こしている現地に毎日のように助言をしていたという。彼は会議終了後に東京を訪れ、古河虎之助と面会した写真も残っている。

リーとバーネイズの違い

 リーと共にパブリック・リレーションズの父と称されるエドワード・バーネイズとは、様々な面で対照的である。リーは、いわゆる職人タイプの広報エージェントで、自分が最後までやらなければ気がすまないタイプだった。彼のPR会社は兄弟や新聞業界の元同僚など、信頼できる人間で構成され、すべてのスタッフはリーの考えの下に行動した。例えば、彼はスタッフが書いたプレスリリースを、一字一句校正していたという。また、彼はカール・ボイヤーなど、当時の若い広報エージェントの憧れの存在だった。
 一方、エドワード・バーネイズは、第一次世界大戦に参戦した米国が、国民の参戦意欲を高めるために結成した広報委員会(CPI)にスタッフとして参加した後、数多くのクライアントの広報宣伝活動を手掛けた。バーネイズは、ニューヨーク大学で初のパブリック・リレーションズの講座を持ち、専門家育成に尽くしたほか、『世論を結晶化する』や『プロパガンダ』など、数々の著作を発表した。これらの著作は世界中の人々が読み、特にプロパガンダ手法の理解と実践のための教科書として活用された。例えば、ナチス政権初の国民啓蒙・宣伝大臣となったパウル・ヨーゼフ・ゲッベルスが『世論を結晶化する』を所有していたことが知られており、この事実をバーネイズが知っていたかは不明である。
 リーとバーネイズに対する後世の評価に差がついたのは、リーが自身のパブリック・リレーションズにあまり真剣に取り組まなかったのに対して、バーネイズは熱心に取り組んでいたからだと考えられる。これは、1920年代に両者が広報エージェントという仕事について、どのような考え方をしていたかを比較すれば、容易に推察することができる。リーは、自分やバーネイズといった現役の専門家がいなくなったら、真のパブリック・リレーションズもなくなってしまうだろうと考えていた。
 しかし、バーネイズは将来のパブリック・リレーションズの成長を信じていた。そのためか、バーネイズはパブリック・リレーションズという職業や業界に権威付けしようと様々なことを試みている。自身の肩書きを法律用語から借用した「カウンシル」と名付け、著書を執筆し、大学でパブリック・リレーションズの講座を持ち、後進の育成にも取り組んでいた。

現代PRにおけるリーの貢献

 リーが活躍した20世紀初頭の米国は、世界最大の工業国となり、また世界の政治リーダーとして国際社会での存在感を増しつつあった。急速な工業化と経済市場の発展、移民の大量流入、新聞メディアの普及によるパブリック(世論)の形成など、企業の経営者を取り巻く環境は激しく変化し続けた。このため、従来の人事制度や組織運営、組織内のコミュニケーションが通用しなくなった。彼らには、ステークホルダーとのコミュニケーションを円滑に行うための、パブリック・リレーションズという新しいマネジメント手法が必要であり、その専門職が求められていたときに、その要求に応えたのがリーだったのである。
 米国PR協会が1970年に行った、20世紀における最も重要なパブリック・リレーションズの専門家を選ぶ投票では、リーが1位に選ばれるなど、彼の功績は今でもパブリック・リレーションズのプロたちから評価され続けている。
 リーのより詳細なエピソードや、彼の活躍した時代背景、広報事例分析にご関心のある方は、拙著『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』(同友館)を手に取っていただければ幸いである。
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