経済広報

『経済広報』(2013年7月号)掲載
広報コトバ物語 第2回
満鉄の弘報活動
―プロパガンダとパブリック・リレーションズのコトバ史―
剣持 隆 剣持 隆(けんもち たかし)
名古屋文理大学 教授 

日本最初の弘報組織

 南満州鉄道(株)(以下、満鉄)は1906(明治39)年に設立された。日露戦争終結に際しポーツマス講和条約が結ばれ、それまでロシアが権益を保持していた長春から大連まで満州を縦貫する幹線が日本の支配下になった。満鉄はそのために設立された特殊会社で、資本金は2億円、政府が現物で半額、残りは民間が出資した。初代満鉄総裁・後藤新平は台湾総督府民政長官を経ており、調査を重視したことで知られている。
 満鉄では設立当初から総務、運輸、鉱業部などと並んで調査部が設置され、弘報係は1923年、総裁室に設置された。弘報組織は単独で設置されたのではなく、情報収集、調査組織の一環として設置されている。満鉄を取り上げるのは、今日の視点から見ても本格的かつ多彩で、スケールの大きな弘報活動が展開されていることに驚かされるからである。

弘報のネーミング

 弘報係設置の提案者は総裁室嘱託の高柳保太郎で、初代の弘報係長を務めた。高柳はシベリア出兵時に弘報班を設けたり、オムスクの特務機関長になった人物で、情報機関を特務機関と名付けたのは高柳とされる。シベリア軍参謀長を務めた後、待命となり関東軍付きの中将となり、予備役に編入されていた中で満鉄入りした。高柳を招き入れたのは、当時の理事・松岡洋右といわれている。
 なぜ弘報と命名したのか、その理由を満鉄の弘報課長を務めた松本豊三が尋ねた際、高柳は「弘報とは広告ひろめ屋のことじゃよ」と答えたいきさつが満州国の発行した『宣撫月報』に掲載されている。弘報という用語は、当時新鮮であったようである。弘報部員だった石原巌徹は「当時は宣伝というと何かウソが入っているというような印象を与えるので、弘報が採用された」と述べている(「大陸弘報物語」『満鉄会報』)。

満鉄の弘報活動

 満鉄の弘報活動は、満鉄トップの交代、経営組織の改編によって調査関係の組織と活動の変化に連動し、弘報組織も刻々と変わっていく。特に1931年の満州事変の前後では弘報活動の内容が大きく変わった。ここでは紙幅の関係からそうした変化を追えないが、どのような弘報活動を展開したか、ポイントを絞って具体的な事例を追跡したい。
 弘報活動は大きく分けて、出版物、映画制作、ラジオの活用、イベントなどで、満鉄の用語でいえば、「文章宣伝」「形影宣伝」「口受宣伝」などとなる。
 まず刊行物では、定期のものが『満州グラフ』『CONTEMPORARY MANCHURIA』(コンテンポラリー・マンチュリア 英文隔月刊)、『満州概観』(写真帖)、『満州と満鉄』『満州と日本』『子供の満州』『満州産業事情』『英文満鉄』(隔年)、『英文満州』(同)、『英文満州発達報告書』(同)など。随時『満州は移民の楽土』などの弘報叢書や東亜新書(1941年から43年にかけて単行本の形で満鉄弘報課編として中央公論社から出版)、英文パンフレットとして、「支那事変と満州国」や「共産党の陰謀」などの出版。満鉄ポスター、満鉄カレンダー、絵はがきなども作成し、写真は4万枚以上。
 映画は1938年までに160本以上。トーキー版で幾つか挙げると、「娘々祭」「満州国全貌」「秘境熱河」「内鮮満周遊の旅」など。サイレント版では「風光る」「ラマは踊る」「建国の春」「満蒙破邪行」「満州国皇帝御訪日」「旅順開城」「特急アジア」など(『満鉄十年史』)。満州事変から満州国建国にかけて、満鉄の映画制作は関東軍の「映画班」的な役割を担い、満州映画にスカウトされたスタッフもいた。映画のみならず満鉄の弘報部員は関東軍の嘱託になったり、満州建国に当たって弘報活動の専門家として徴用された。 

海外弘報 ニューヨーク事務所・パリ事務所

 満鉄は早くから世界を視野に入れた活動を展開している。1920年にニューヨーク事務所、1934年にパリ事務所を開設している。また海外へ日本のオピニオンリーダーを派遣したり、逆に満州に米国、英国の新聞記者や教師を招待し、視察してもらっている。リットン調査団への対応などは、今日の広報感覚でも感度の高い活動を展開している。
 ニューヨーク事務所であるが、これは満鉄の米国における外債の発行のために設置された。外債発行を実現するためには日本を理解してもらわねばならない。そのために、メディアを対象に対日世論対策に力を入れた。ニューヨーク事務所の担当者はNBCやニューヨーク・タイムズ、AP、CBSなどの一流メディアの記者との関係づくりに腐心している。今日のマスコミ対応の先駆ともいえる。5000万ドルの外債発行は不発に終わるが、ニューヨーク事務所は満鉄の米国におけるパブリシティーの拠点であった(草柳大蔵『実録満鉄調査部』下)。1937年からは『CONTEMPORARY MANCHURIA』を発行した。巻頭言は時の松岡総裁でA5判150ページの満鉄、満州の発展状況を詳しくレポートした、今日でいえば広報誌である。
 パリ事務所では、日本文化の紹介誌『FRANCE- JAPON』を発行した。満鉄の文字が入っていない垢抜けた雑誌である(天野博之『満鉄を知るための十二章』)。
 海外記者の招聘では1929年に米国の新聞記者を日本、満州、中国の視察に招いている。外務省と満鉄の企画であるが、経費は満鉄の負担。表向きは「カーネギー財団主催、鉄道省・満鉄援助」という形がとられた。日本の対中政策への理解を得ることが眼目である。1934年にも日本新聞協会主催で米国記者団を招いている。経費は満鉄負担。満鉄自身、京津駐在米英記者団を視察に招き、さらに米国の高校の女性教師を満州に招待している。海外メディア対応では、1931年、満州事変が起きた際、満鉄上海事務所が中心になって「プレス・ユニオン」を設立した。これは満鉄が収集した情報を英訳して、現地の英字紙や欧米の記者にニュースとして頒布した。事変後は新聞聯合社上海支局が引き継いだ。同様の団体が北京や天津にもつくられた。
 逆に、日本の学者、研究者を米国へ派遣する企画も。1932年、新渡戸稲造や鶴見祐輔がCBSラジオに出演して「日本の立場」を訴えた。新渡戸と鶴見の1年間の米国滞在費は満鉄が負担している(里見脩「卓越した対外弘報」『満鉄とは何だったのか』)。

インパクトのあった名士招待

 「文章宣伝」にカテゴライズされる名士招待の顔ぶれは、当時の有名人を網羅したものだった。それは帰国後の作品発表を期待したものであったという。招待された主な人々は、菊池寛・横光利一(『寝園』)・佐佐木茂索・池谷信三郎・加藤武雄・新居格・戸川秋骨・佐藤春夫・直木三十五・志賀直哉・有島生馬・吉屋信子・河崎なつ・金子しげり・久米正雄・夏目漱石・長与善郎・真船豊・立野信之・大佛次郎(以上、作家)、横山隆一・清水崑・北沢楽天・宮尾しげを・池部鈞・宍戸左行(漫画家)、和田三造・岡田三郎助・梅原龍三郎・安井曾太郎・石井柏亭(画家)、河東碧梧桐・与謝野鉄幹晶子夫妻・斎藤茂吉・佐藤惣之助・土屋文明・野口雨情・高浜虚子・山口誓子(歌人・俳人・詩人)、阿部知二・今日出海・長谷川如是閑・木村増太郎(ジャーナリスト)など。
 その“成果”は、例えば梅原龍三郎の「北京秋天」、夏目漱石の『満韓ところどころ』などになって表れた。俳句、画家のスケッチ、漫画家の作品などは団扇(うちわ)の製作に活用されるなどした。
 さらに、対外的な弘報ではなく、社内のコミュニケーションを図る社内報ともいうべき『協和』が社員会によって発行されている。1927年から1944年までであるが、社員の意見や主張、職場紹介、趣味に至るまで幅広い編集で活気のある内容になっており、満鉄社員の本音をうかがうことのできる貴重な記録となっている(『協和』1985年復刻、龍渓書舎)。 

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