経済広報

『経済広報』(2013年11月号)掲載
広報コトバ物語 第5回
戦前と戦後
―プロパガンダとパブリック・リレーションズのコトバ史―
剣持 隆 剣持 隆(けんもち たかし)
名古屋文理大学 教授 

戦前と戦後は繋がっているか

 さて、ようやく戦前と戦後の関係を見る地点にきた。戦前の弘報と戦後の広報は繋がっているのか。
 パブリック・リレーションズは、何よりも民主主義をベースにしたものであって、全体主義の戦前の日本ではパブリック・リレーションズなど育っていたわけがないという考え方も成り立つ。
 しかし、戦前の日本が、100パーセント全体主義、軍国主義で塗りつぶされていたのかどうか。例えば、満鉄の米国での起債のための弘報活動は、今日から見ても優れたパブリック・リレーションズ活動だ。満鉄弘報の弘報部員が、必ずしも関東軍や満州国の指示通りには行動しなかったという例もある。ただ、満鉄は植民会社として運命づけられており、歴史の流れにはあらがえなかったのである。
 また、戦時という状況の中では、民主主義であろうとなかろうと、軍事的な戦略が優先するのはどの国にも共通する。だからといって、そうした国家主導のコミュニケーション政策の質的な異同を無視してよいとはとてもいえない。戦前の満鉄や満州国、内閣情報部の弘報活動や弘報研究の意義に関しての歴史的な分析・評価は、依然課題としてある。
 戦前の日本の弘報体験がどのように戦後に繋がっているのか。その質的な分析と評価をする前に事実を幾つか挙げたい。
 例えば、特に満鉄で弘報体験を積んだ専門家は戦後、電通に多数入社している。電通は、GHQのパブリック・リレーションズ導入に連携して、その思想と技術の普及を目指した主要なルートのひとつであり、満鉄人脈が活躍したことは大いに想像できる。弘報プロパーの世界ではないが、満州国政府の要人は戦後日本の政治・経済で指導的な役割を演じており、出版界に転じた人物もいる。また、戦時体制下、広告関係者によって報道研究会が設立され、メンバーは宣伝技術を戦意高揚のために積極的に活用したが、その報道研究会活動が戦後にも繋がっていく様を、難波功士『撃ちてし止まむ』(講談社、1998年)は活写している。

広報理論の継続性

 広報理論ではどうか。戦前、『宣伝技術論』を書いた小山栄三は戦後『広報學』を著すが、それは戦前の著書『宣伝技術論』などがベースであり、「宣伝」という文字を「広報」に置き換えただけの文章があふれている。用語としては、「宣伝」と「広報」は連続している。しかし、『宣伝技術論』は戦争への参加を強烈に訴えており、「宣伝」に込められた戦前の意気込みと戦後の「広報」に盛り込まれた思想は異質なはずであるが、著者の検証は一切されていない。
 小山栄三は戦前の報道研究会の指導者の一人であり、戦後はGHQに協力し、国立世論調査所の所長になっている。世論調査については、戦後間もなく内閣情報室に世論調査課が発足し、1949年に国立世論調査所がGHQの主導で設立された。

OWI―GHQ―ドン・ブラウン

 GHQによるパブリック・リレーションズの導入は、軍政部によるPRO(パブリック・リレーションズ・オフィス)設置のサゼスチョンから始まるが、1949年に始まる13回にわたる広報講習会はCIE(民間情報教育局)が担当している。この講習会には、NHK、朝日新聞、労働省などのそうそうたるキーマンが参加しており、当時の熱気が感じられる。
 この講習会で指導的な役割を果たした情報課長ドン・ブラウンは、OWI(戦時情報局)で対日心理戦に従事、宣伝ビラの作成などに携わった人物である。
 OWIのルーツは、古くはCPI(コミッティー・オン・パブリック・インフォメーション)にある。ルーズベルト時代にCPIを凌駕する組織として、1934年にUSIS(合衆国広報局)が設置され、これが1939年にOGR(政府報告室)に吸収され、第二次世界大戦の勃発でOWIとなった。
 OWIは、戦時の情報収集と心理戦の宣伝機関で、出所明らかな情報を駆使したホワイトプロパガンダといわれる情報宣伝活動を展開した。
 こうして見ると、戦前の日本の弘報、宣伝は戦中、戦後へと繋がっており、米国の戦前、戦中のパブリック・リレーションズ、プロパガンダも戦後の日本に流れ込んでいるといえないだろうか。それぞれがどのように重なり合っているのかについては検証が必要となる。

パブリックが不在だったのか

 さて戦後、GHQが都道府県に対してPROの設置をサゼスチョンした当時、日本にはパブリック・リレーションズの適訳がなかった。

 訳語の候補に出た用語は、公衆関係、情訪、公聴、広聴、弘報、広報、報道、情報、情報連絡、信愛建設、渉外など。関連した用語には、宣伝、普及、連絡、公渉、啓発などがある。行政広報の世界では、やがて広報という呼称に収斂(しゅうれん)していった。
 同時に、広報は広く報らせるという一方通行の意味合いが強くなり、行政広報において「お知らせ広報」化していく。自治体の発行する広報紙を見る限り、今日もその域を脱していない例が少なくない。
 さて、パブリック・リレーションズは、GHQの講習会も含めて、電通、日経連、証券業界などで導入・普及の動きが活発化し、1950年代前半にはパブリック・リレーションズの理論書や紹介書がブームともいえるほど多く出版された。
 しかし、1960年代になってからは、理論書は目立たなくなり、多くは実務書が中心になった。この動きを見て「理論化は断念された」という論者もいる(渋谷重光『大衆操作の系譜』)。その理由を渋谷は、学者の実務知らずに加えて、パブリック・リレーションズの理論領域がコミュニケーション論、メディア論、心理学や社会学など、極めて広範にわたり、個人の努力では無理があることを挙げている。
 その後も、パブリック・リレーションズの理論化への努力が見られなくなったことについての考察は、これまであまりなされていない。
 その原因について、筆者はひとつの感想を持っている。それは仮説といえるほどのものではないが、終戦直後の日本には、米国発のパブリック・リレーションズの思想と技術を実践する主体と、それを受け止めるパブリックが米国と同様には形成されていなかったのではないかということである。また、ツールとしてのメディアについても同様のことがいえるのではないか。その検証は大きな課題である。

戦後の広報発展の概観

 パブリックに関連するコトバ、連想できるコトバもまた多い。公衆、大衆、市民、公民、住民、生活者、庶民、人民、国民、群衆など。今日、ステークホルダーといわれる消費者、顧客なども。また中間層というコトバもカウントできよう。こうしたコトバと広報における関係構築の問題も課題としてある。
 広報をめぐる用語は戦後激しく変容してきた。今日では、マーケティング広報時代と呼ばれる1960年代の高度成長時代、パブリシティーは広報の代名詞的な用語であった。企業広報の世界では、パブリシティーは金のかからない広告などともいわれた。
 公害が深刻化し、欠陥商品や悪徳商法が跋扈(ばっこ)し、企業の社会的責任が問われた70年代には、火消し広報、防衛広報などといわれたが、環境対応なども視野に入れたパブリック・アフェアーズも提起された。この時代に、日本の企業広報は本格的なスタートを切っていく。
 産業構造が重厚長大から軽薄短小にシフトし環境対応が進んだ80年代は、コーポレート・コミュニケーションが提起され、CIが企業広報の世界を席巻した。企業の対社会的なコミュニケーションは双方向が基本という認識が深まった。もっとも、広報は双方向性を生かして自己矯正する対話だという指摘は60年代末、既になされている。80年代は、企業が企業変革コミュニケーションの主役になった時代である。
 90年代は、企業不祥事の多発で危機管理広報が広報のミッションになった。90年代半ば以降は、企業市民広報、環境広報、コンプライアンス広報などが情報開示をベースに統合され、CSR(企業の社会的責任)広報が大きな潮流となり、現在に至っているが、そろそろ革新が求められる段階になってきた。
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